もし相手があなたを責め、罰することができないなら、自分自身の自責の念が的外れなものだと気づき、リラックスし、長年の心の痛みから解放されるかもしれない。
もしそれができないなら、その罪悪感が本物であるかのように対応するからと言い、相手を許し、相手にも自分を許すように促す。
にせ物の罪悪感は本来、理性的なものではない。
だから論理的な思考が通用しない場合もあるだろう。
自分の罪悪感にしがみつき、苦しみも自滅的行動も手放さず、あなたが何をしても自由になれない人もいる。
しかし、罪悪感がにせ物だと気づいてもらおうとするあなたの努力と、相手のことを気にかけている気持ちを理解し、自尊心を取り戻し、的外れな罪悪感を捨てて新しい生活を始められる人もいるだろう。
もちろん、健全な羞恥心もある。
たとえば、自分が理想以下でいることにいい気持ちがしないのも羞恥心のせいだし、今の自分とあるべき自分とのギャップを気づかせるのも羞恥心だ。
こうした感情が生じるのは自然なことで、いい効果がある。
だから、誰かの権利を侵しても非難されはしないと思っても、羞恥心が働いて思いとどまり、相手を尊重した行為がとれる。
羞恥心は私たちに、他人が本来もっている価値、自分の自由に適度の制限があること、それを超えたときに悲劇的結果が生じることを思い出させてくれる。
マイナスの衝動にブレーキをかけ、笑いものになるのを防ぐだけではない。
そうした衝動を建設的なかたちに導き、生活に安全と満足をもたらす。
しかし、健康的で建設的で必要性のあることをさせない羞恥心、少なく見積もっても、汚れたり、焦点が合っていなかったり、壊れたメガネをかけたときのように自己像をゆがめる羞恥心は害になる。
このような羞恥心は欠点を誇張し、自分にはいいところなんて何もないと思わせる。
そういった羞恥心をもつ人は、心に描く理想像や尊敬する人のようにはけっしてなれないと思ってしまう。
その状態が進むと、自分に価値が見いだせなくなり、自己嫌悪に陥り、いわゆる心の病気にかかる。
恥ずかしいと思うことをたった一つでもすると、自分はひどい人間だと思い、みじめになる。
自分には特別な好意を受ける「資格」がないうえに、「役立たず」だと思う。
誰にもそんな「資格」はないし、「役立たず」な人などいないのにもかかわらず、だ。
自己批判の悪循環の中で、自分にやさしくなれないために、ますます自己嫌悪に陥り、羞恥心にさいなまれ、その苦痛を和らげてくれるものに手当たりしだいに頼るあまり、依存症の深みにはまる。
賃貸事務所をお探しの方へ。特徴のある賃貸事務所です。
貸事務所の最安値を見つけよう !貸事務所で掴める掴める夢があります。



